比較的有名な言葉だと思います。武士は食い詰めて貧しくても、周りにはそれを悟らせないように振舞うという事です。
武士は見栄っ張り。そんなイメージを持たせるような言葉でもありますが、それだけの意味合いでは当然ありません。清貧の話は前に述べましたが、貧しくても高潔な魂は失わないようにと言う教訓なのです。ですが、それが実際は難しい事も前に併せて述べました。
実際はやはり、貧すれば鈍するなのです。貧しければまともなものが食べられず、真っ当な教育も受けられず、結果的にまともな生き方もままならない。昔は、今以上にそんな世の中でした。
ですから、武士とは言え、お金を稼ぐ。出世するという事は当然悪い事ではないのです。
戦国武士道においては、当然立身出世は武士の本懐です。この点において、現代における我々と戦国武者も何ら変わりはありません。ですから、当然戦国武者の、戦国武士道にも、お金との付き合い方は学べるのです。
昔で言う金子(きんす)です。当然ですがこれが無ければ生活できないのは今も昔も一緒です。ですから生活において、当然誰にとっても重要なものになります。それだけに、お金話はどうしても生々しく、かつ居心地の悪いものになります。
まずはお金と言うものを正しく理解する事から始めてみましょう。
お金は、現代であれば金属か紙でできています。そして、あらゆるサービスや商品の対価として求められます。つまり、お金そのものに価値があるのではなく、その効果に価値があるのです。
支払ったお金の量に従って、相応の見返りを得る事が出来る。ですからお金その物に執着するのは過ちです。お金は使ってなんぼ。まさにそんなものです。
そして武士にとっては、お金をどう使うかが大事であると考えられています。金は天下の回り物。むやみやたらにため込むのではなく、使うべきことに使う事が重要です。何に使うべきか。それは自分自身の大願成就の為です。つまり、なりたい自分の為に投資する事が重要だと説いています。
経営者の方は理解しやすいでしょう。必要な経費は惜しまず使い、不必要な経費はしっかり抑える。そんな基本の考え方です。やはり自分や自分の会社を大きくするためには、その為の投資は必要不可欠です。
経費的な使い方は、特別目新しい教えでもないですね。ですが、もう一つの教えには、学ぶ事が多いかもしれません。明治天皇の皇后さまの御歌を引用します。
持つ人の心によりてかはらとも
玉ともなるはこがねなりけり
この歌の意味は、持つ人、つまり使う人の心掛け次第で、かはら(瓦の事で、価値がないものの例え)にも玉(宝玉などと言うように、価値あるものの例え)にもなるのがお金だと言っています。
まさしく、お金はどのように使うかで、その人の真価が問われる側面もあります。つまらない事に散財するのか、有意義な取り組みに使用するのか。
その有意義な事の一つに、教育があります。これは自分自身でも、部下の教育でもです。人のとって最も価値のあるものの一つが、他者との繋がりです。人は一人ではまともに生きる事は不可能です。独りぼっちでは幸せな人生を送る事は難しいのです。
誰かを助けるためにお金を使う。親しい取引先に、十分な対価を支払う。こんな使い方が大事だと言えます。物の価値を理解できる事は教養の一つです。価値を正しく理解して、それに見合う対価を支払う。こういった関係が、ビジネスで付き合う時の理想的な在り方ではないでしょうか。
正当な対価を値切る行為は、自分自身の品格を下げる行為です。また、値切ると、相手からも値切られます。まさしく負の連鎖に陥るのです。正しく価値を理解できる。そして惜しみなく必要な対価を支払う事が出来る。これが良いお金の使い方の一例です。金は天下の回り物とは、こういった循環を表します。正しく回すコツがここにあるのです。回すという事は、結局自分にも正しい対価が戻ってくるという事です。
不必要な支払いを行う事は確かに愚かです。
ですが払うべき対価を値切ったり払わない事は、それ以上に愚かと言えます。これは倹約家ではなく、吝嗇(ケチとう意味合いの言葉)というものです。
情けは人の為ならず
金は天下の回り物
あなたがきちんとしたお金の使い方をしたいのなら、価値を見抜くと知識を備え、正当な対価は惜しむことなく支払う。こういったお金にも好かれる振る舞いがとても大事なのです。