生活する、住まうという行為は、何も建物や家具だけを指すわけではありません。そこに住まう人々の、人生におけるイベントや行事も含めて、初めてその全容が見えてきます。生活の裏には文化あり。人生における重要なイベントを「冠婚葬祭」で見ていきたいと思います。
●冠婚葬祭とは
冠婚葬祭(かんこんそうさい)とは、日本人の生活において非常に重要な儀式である、「元服」・「婚礼」・「葬式」・「祭」の事です。多少の変化はあっても、現代に生きる我々にとっても重要なイベントとして継承されています。ですが、その歴史や発祥を知る方は少ないのではないでしょうか。
これら冠婚葬祭の正しい在り方を学ぶ事で、日本人の精神をより良く理解する手掛かりになればと思います。
冠婚葬祭に限らず、地域の行事という物は独自の風習を持つ、地域性豊かな側面もあります。その為、今回取り上げる冠婚葬祭の歴史は、現代の首都である東京の昔「江戸」を例に取り上げております。
今も昔も子供の誕生はとても嬉しいものです。
新たな家族の一員としての我が子を、そして地域社会の担い手である子供たちの誕生を祝う気持ちは、昔も今も変わらないものなのかもしれません。
江戸における出産祝いは、平安貴族に流行した「産養い(うぶやしない)」という行事に基づきます。
医療が発達した現代とは異なり、生まれたばかりの子供が理由も良く分からず亡くなってしまうケースは、そう珍しいものではなかったようです。そんな時、親は嘆き悲しむと同時に、何か目に見えないモノに我が子が連れ去られてしまったような感覚を抱いていました。
そんな良くないモノから生まれたばかりの赤子を守る為に、「産養い」と称して祝宴を催したのです。参加者は親戚や知人などでした。
誕生の日の祝宴を「初夜(うぶや)」といい、その後も奇数の夜毎に祝宴を催しました。招かれた参加者は、振舞われた料理や酒を食べて祝いました。その際には祝儀を置いていく習わしになっていました。(これは金銭に限らず)
生後七日目になると、それまで赤子に着せていた「おくるみ」から産着に着せ替えを行いました。この頃には、急に亡くなってしまう心配が大分薄れたと考えられていたからです。
生後百日ともなると、更なる子供の成長を願って「食初め(くいぞめ)」という行事があります。これは、大人と同じ内容の祝い膳を用意し、それを食べる真似事をさせるのです。子供の自立を願う心と、生涯通して食べ物に困らないようにという願いが込められています。
三月三日に行う「桃の節句」で、女の子の為の行事です。ですが、現在の暦において考えると、少し不思議に思うかもしれません。
それもそのはず、旧暦の三月は既に晩春の時期に差し掛かり、桃の花が咲く時期でもあったからです。現代の三月上旬では、基本的には桃の開花はまだですね。
雛祭りはもともと、中国における上巳(三月三日)の行事と、日本の習俗が合わさって出来た行事です。
中国における上巳(じょうし)の行事は、一年の穢れを祓うために、体に香草を塗り、その後飲食を楽しむ行事です。日本では、穢れを祓う際に、紙で作った人形(形代((かたしろ)))を流すという行事がありました。
この人型の形代や、平安貴族の女児に流行った雛遊び(人形遊びのような物)と合わさって、現在に見られるような雛祭りの原型が出来たと言われています。時期はおおよそ室町時代頃の話です。
●白酒と菱餅
雛祭りに欠かす事が出来ない名わき役が、「白酒(しろざけ)」と「菱餅(ひしもち)」です。
当時女性や子供は飲酒が禁止されていましたので、例外的に飲酒が許されていた「白酒」は、大変好まれました。
一般的には強いお酒ではないので、酒飲みよりは女性に好まれていたようです。
その起源は、室町時代に製造されていた「練酒(ねりざけ)」と言われています。
一方の菱餅はと言うと、こちらも室町時代に宮中の正月の供え物とされていたのが発祥とされています。その起源については諸説あるのですが、古代中国の周の故事に基づく逸話が有名です。その際は、先祖へのお供え物として用いられました。
●お彼岸の時期
春分の日(三月)及び秋分の日(九月)を中日にして、その前後三日間を含めた全七日間がお彼岸です。ですから年に二回あります。
●お彼岸の意味
お盆と同様に祖霊を供養するために墓参りや法事などを行います。現代においてはちょうど行楽シーズンですから、何となく春の入り、秋の入りをほうふつとさせる時期でもありますね。
ちなみにお彼岸と言う言葉ですが、仏教における此岸(しがん)と彼岸(ひがん)からきています。此岸とは現世の事です。そして彼岸は悟りの境地を表します。
●お彼岸とおはぎ(牡丹餅)
さて、現代でもお彼岸と言えば、おはぎ(牡丹餅)ですが、江戸も各家々でおはぎは作られていました。おはぎがお彼岸に用いられるようになった理由は、もともと春分の日と秋分の日に「掻餅(かいもち)」を豊穣祈願や収穫祭として神に奉納していた行事に由来します。お彼岸の発祥についても、この日本にもともとあった行事と仏教思想が結びついて成立した行事です。ですから、それ以外の行事の多くの様に、仏教にある行事を取り入れたものではない為、お彼岸の行事は、中国にもインドにも見られません。
五月いつかは端午の節句として、現代では「こどもの日」として祝われていますね。
この端午の節句ですが、もともとは女性の日であった事はご存知でしょうか。
旧暦における五月五日は「早苗月(さなえづき)」と言います。当時田植えは、子供を産む事が出来る女性の力が必要な仕事であるとされていました。
そのため、五月五日になると、身を清めるために、菖蒲と蓬で茅葺を行った、通称「女の家」に籠りました。これを「葺籠り(ふきこもり)」と言います。
その一方で、中国においては五月五日に、薬草を摘んだり、草を武器にして遊ぶ習慣がありました。邪気を祓う習慣として、菖蒲で作った剣を飾ったり、菖蒲酒を飲んでいたのです。
こうした習慣が伝えられ、次第に庶民の間にも広まっていきました。その為、端午の節句に欠かせないものとなったのが「菖蒲刀」です。
菖蒲は尚武という、武を尚ぶという言葉に通じます。所謂勝ち守りの様な意味合いですね。男の子にとって武運長久である事は、重要な願いでした。
武士の習わしに、家紋を描いた旗を掲げて威勢を誇示する習わしがありましたが、端午の節句にもおいても旗を立てたり、武者人形を飾るのは、これらに由来しています。これも男の子の武運を願う気持ちの表れです。
●雄大な鯉幟
また、端午の節句に欠かせないものは「鯉幟(こいのぼり)」です。現在でもその雄大な姿を各地で見る事が出来ます。
この鯉幟を掲げる習慣ですが、実は日本独自のものです。中国から伝わった風習ではないのです。
武士はもともと戸外に「吹流し」を立てていましたが、庶民の中でも特に裕福な町人が対応して、鯉幟を立てるようになりました。ご存知の方も多いでしょうが、「登竜門」の逸話にあるように、鯉は縁起の良い物として扱われています。
●粽と柏餅
また、端午の節句と言えばもう一つの主役は粽(ちまき)と柏餅(かしわもち)です。
粽の歴史は古く、紀元前の中国まで遡ります。楚の国の屈原という国の重臣が居ましたが、同僚から妬まれ失脚してしまいます。彼は自身の境遇に絶望し、入水自殺してしまいます。彼の遺骸を、鯉が長江を遡って泳ぎ、古郷まで連れ帰ったとされています。
そんな彼の魂を弔うために、命日の五月五日に餅を長江に投げ入れる風習が始まりました。
ところが時代が進んで、屈原の霊が現れて、せっかくの餅を悪竜に横取りされて食べられないと訴えかけます。
そこで、虫や竜が嫌うとされていた栴檀(せんだん)の葉で餅を包むようになり、さらには青、赤、黄、白、黒の邪気を祓うとされている五色の糸も用いるようになり、現在の粽へと変化していきました。既に平安時代には作られ始めていました。
中国伝来の粽に対して、柏餅は日本で誕生しました。
江戸時代中期以降、日本においては男の子が生まれると、五月五日に柏餅を親戚や知人に配る習慣がありました。
柏餅が好まれた理由は、柏の葉は、若葉が出ないうちは古い葉が落ちる事はないため、男の子が立派な跡継ぎになるようにと縁起を担いでいるためです。
七夕祭りは現代でも人気の祭りの一つです。宮城県仙台石と神奈川県平塚市の祭りがとくに有名ですね。
庶民に広まったのも、ちょうど江戸時代からです。
七夕はもともと「しちせき」と読みますが、何故「たなばた」と読むようになったのでしょうか。これは日本で古来より行ってきた「棚機津女(たなばたつめ)」という、七月七日に神を、迎えるために、水のほとりに棚を作り乙女が機を織る行事に由来します。
また、織姫と彦星の伝説は中国のものです。伝説にもとにした「乞功奠(きこうでん)」という祭りがあり、これは女性の手芸向上を祈る祭りです。日本には、宮中行事として奈良時代に取り入れられました。
上記の様な、土着の祭りと伝来の祭りが合わさり、現代の七夕祭りが形成されました。
ちなみに竹に飾る短冊や吹き流し等の装飾品がありますが、その中でもホオズキは少し特殊ないわれがあります。ホオズキの根は漢方薬の材料としても知られてきました。また、これは全く迷信の類なのですが、七月七日に煎じて飲むと、堕胎薬になると信じられていたようです。そこから転じて、死産となった霊の供養の為に、ホオズキを飾るようになったとも言われています。
●お盆について
お盆は盂蘭盆(うらぼん)とも言い、祖霊の冥福を祈る行事です。
現在では、帰省と墓参りがセットで、何となくお休みの期間と言う認識の方も多いのではないでしょうか。
ちなみ、お盆が休日と言う感覚は、昔の「藪入り(やぶいり)」のそれと近いと考えられます。藪入りとは丁稚奉公している者にとっての年に二回の数少ない休日を指します。それが一月十六日と、七月十六日なのです。
しかし江戸のお盆は浮かれてばかりいられる行事ではありませんでした。その当時の庶民の買い物は、基本的にツケで行っていましたが、そのツケはお盆前に清算する決まりになっていたのです。ですから、支払いが済ませられなければ、良いお盆を迎える事が出来ませんでした。
●祭り方
一般的には魂棚(たまだな)を設けます。先端に葉の付いた青竹を四方に立てて、上部を菰縄で結び、下部に棚を作ります。その棚に位牌を設置して祖霊を祭りました。
上述の例に漏れず、魂棚を作る事が出来ない庶民の場合は、仏壇に小さな段を置き、お供え物をするなどして簡易的に済ませていました。
ちなみにお供え物で定番の足の着いたナスとキュウリですが、祖霊は馬に乗って、そして牛に荷物を背負わせて戻ってくると信じていた事が理由です。つまりキュウリが馬で、ナスが牛です。そんな祖霊をお迎えする際は、十三日には迎え火を炊きます。そして十六日には、送り火を炊く流れになります。共に、生きている人間を迎えるかのように、総出で門口に立ち、行いました。
ちなみにお盆は、仏教とは直接的な関わりの無い行事です。盂蘭盆の元となった盂蘭盆経は中国の物です。その盂蘭盆経と日本の祖霊信仰が合致して出来たのがお盆の行事なのです。ですから、仏教の発祥の地であるインドでは、日本のお盆に相当する行事は行われていません。
七五三と言えば、男の子は五歳の時に、女の子は三歳と七歳の時に行う、子供の成長を祝う行事です。日付は十一月十五日に行います。
七五三は江戸時代に始まった行事です。
三歳の祝いは「髪置き(かみおき)」に由来します。これは、三歳になるまでは、丸坊主にされていた子供たちが、それ以降は髪を伸ばす事になる祝いの事です。これはつまり、赤子から子供に成長したことを意味します。
五歳の祝いは「袴着(はかまぎ)」に由来します。これは、男の子が、初めて上下(かみしも)を着る儀式の事です。場合によっては子供を碁盤の上に立たせて上下を着させることもあったようですが、これは碁盤に乗る事で、勝負事を制するようにとの願いを込めての事でした。
七歳の祝いは、女の子の「帯解(おびとき)」と言う祝いに由来します。これは、それまでの付け帯という小ぶりな帯から、「帯親」という親代わりになる様な女性から送られた帯に締め替える行事です。帯をしっかりと締めなおす事で、魂をしっかりと押し留めるような考えからでした。
●千歳飴について
今ではすっかり七五三の代名詞である「千歳飴」は、元禄・寛永年間に、浅草の七兵衛という飴屋が「千年飴」と書かれた飴を江戸市中で売り歩いたのが始まりとされています。
当時は初宮参りの際に親戚や知人に配った縁起菓子でしたが、後に宮参りの際に買い求める様に変化しました。
子供にとっては、とても嬉しい変化ですね。
七五三に限らず、日本における行事ごとは奇数に関連するものが多くあります。これは、中国の陰陽五行説に由来します。簡単に言うと、奇数は縁起が良い数字として扱われているためです。
五節句と言う、代表的な五つの行事である人日(じんじつ)(一月七日の七草)、上巳(三月三日の雛祭り)、端午(五月五日の節句)、七夕(しちせき)(七月七日の七夕)、重陽(ちょうよう)(九月九日の菊の節句)でも、奇数の日に設定されています。
現在では二十歳で成人として、大人の仲間入りとします。
江戸時代においては、男子は十五歳、女子は十三歳で成人とされました。これは数え年の為、満年齢で言うと十四歳と十二歳となります。
現代の感覚では少し早いように感じる方も少なくないでしょう。
男子は成人に当たって「元服(げんぷく)」を行うという風習があります。元の字は「はじめて」を表します。また服の字は「衣服」を表します。つまりはじめて大人と同様の衣服を身に付け、大人になった証とする儀式と言えます。ちなみに歴史上最初の元服を行ったのは、聖武天皇と言われています。
また、平安時代の伊勢物語に出てくるように、元服は「初冠」とも称されました。これは貴族の間で行われた、頭に冠をのせる成人の儀式です。
一方武士の側は「烏帽子(えぼし)」でした。有力者が烏帽子親となり、自分の一字を取って元服名を付けました。この名前がそれ以降に大人として用いる名前になります。
江戸時代以降には、行事の簡略化が起きます。基本的には、前髪を落として髷を結う事でこれらの行事の代わりとなりました。
●女性にとっての成人の儀式
女性の成人は男性より早く、十三歳とされました。この十三歳という年齢は、初潮を迎える時期に相当します。「十三祝い」という行事で、それまでの子供向けの四つ身仕立ての着物から、大人と変わらないものへと着替えを行います。
ここから転じて、庶民の間では初潮を迎えること自体が祝いの対象となり、赤飯を炊いて祝うようになります。
また、「腰巻祝い」というものも行います。腰巻とは下着の一種ですが、これは叔母もしくは伯母から贈られる赤い腰巻です。
それ以外にも、「髪上げ」を行いました。平安貴族の女性の間で行われた成人の儀式ですが、はじめて髪を結い上げる事です。また、「裳着(もぎ)」や「鬢除(びんそぎ)」、「お歯黒」、「眉剃り」等も行いました。
裳着ははじめて裳を(十二単の中の一つの衣装)付ける成人の儀式です。
お歯黒と眉剃りに関しては、江戸の庶民の間ではどちらかと言うと結婚の直前に行われるようになります。
婚礼は現代においても非常に重視される人生のイベントですが、現代と江戸では大きく様子が異なります。
江戸の婚礼は、武士であれば親が選んだ相手と、庶民であれば見合いによって行います。自分が好きになった相手がいても、親の意向に背いて結婚する事は難しかったのです。
現代では自由恋愛が認められていますから、その点だけ見ても恵まれていると言えるでしょう。
また、日本では古くは「招婿婚(しょうせいこん)」と言って、夫が妻のもとに通う形式の結婚の形がありました。今は「嫁取り」と言って、一般的には男性の家に女性を迎える形になっています。
なお結婚の年齢ですが、江戸初期の武士の場合は、十三歳以上であれば可能でした。これは、武士はいつ戦死するかもわからず、子が無ければ家が断絶してしまうため、早く子供を作るという戦国時代の風習の名残です。しかし平和な時代が続くにつれて晩婚化し、三十歳くらいで結婚するケースが多くなったようです。
武家の女性の場合は、遅くても二十五歳くらいまでに嫁入りしました。実際に嫁入り時とされたのが十六歳くらいで、二十歳で年増と呼ばれたそうです。この点も現代の感覚とは大きく異なりますね。ちなみに二十四歳くらいで中年増、二十八歳くらいで大年増と言ったそうです。
武士にとっては、婚礼は自由が無いものでした。上述のように、家を守る為と言う理由が全てであったからです。婚礼後の床入りの際に初めて相手の顔を見るなんてケースもあったようです。
武士の婚礼においては特に家同士の格が釣り合っている事を重要視しました。ですから、一般の町人と縁組する事は考えられなかったようです。唯一例外としては、町人の娘が武家に嫁ぐ場合です。この場合は、どこか他所の武家の養女になった後に、改めて武家の娘として嫁ぐという方法を取っていました。
●お見合いについて
今では旧来のお見合いによる結婚という形は減っていますが、お見合いはもともと庶民の風習でした。
当時のお見合いは、現代のわれわれが考えるそれとは異なっていました。
場所は水茶屋(参詣人が休憩する喫茶店の様な店)を使い、茶を飲んでいる男性の見合い相手を、仲人と一緒に女性が通りすがる形で、双方がちらっと見る程度で行われました。この時点で気に入らなければ、話はそれまでです。ある意味気を遣わずに見合いが行える良いシステムではないでしょうか。
●仲人について
この見合いを段取るのは仲人の仕事です。仲人は甲斐甲斐しく世話を焼きますが、それもそのはず、縁談が決まれば、婚礼に関わる持参金の十分の一が貰えるという利点があったからです。その為、仲人を商売にする女性もいた程でした。
現代では婚活を支援するサービスが多く見られますが、ある意味、本来の仲人業を、企業が行っているとも表現できますね。
●婚礼の儀式について
現在の結婚式の原型となったのは、毛利元就の輿入れの行列が最初だと言われています。
当時の婚礼は、個人同士の物ではなく、家と家の結びつきと言う性格がありました。ですから裕福な商人も、上記の輿入れの行列に倣い、嫁入り行列を行ったのです。
現在で結婚式における自由度は高く、花嫁が着る衣装もウエディングドレスが主流です。ですが当時は白無垢が花嫁の衣装でした。花嫁が白無垢を着るようになった理由は次のようなものがあります。それは、神事において祭主が着る斎服の流れを汲んでいるのです。理由としては、古い時代においては、葬儀の際に白い服を着ていました。そこから転じて、花嫁が嫁ぎ先で一生を終えるという覚悟の表れとして用いられるようになりました。
現代では、嫁ぎ先でどんな色にでも染まれるようにという意味合いがあると語られる事もありますが、これは現代的な解釈で、当時その様な意味合いは存在しませんでした。
花嫁は、白無垢の衣装とは別に、綿帽子もかぶる事になります。この帽子は、もともと公家の女性が外出の際に顔を覆面で隠していた事に由来し、由井正雪の乱をきっかけに覆面を禁止されたことをきっかけに、主に年配の女性が身に付けていた綿帽子が、年若い女性にも普及した事から、これが婚礼でも用いられるようになり始めりました。
●婚礼の儀式の方法
日本の伝統的な婚礼と言えば、所謂「神前式」と考えている方も多いと思いますが、もともと日本の結婚式は、家族や知人のみで行われていました。今の様に神官が執り行う神前式は、明治三十三年に、東京日比谷の大神宮で行われたのが最初だと言われており、比較的近代に始まった形式です。キリスト教の婚礼(献金を受けて行っていた)を参考にしたと言われています。
もともとは、身内や知人のみで、三々九度の盃と、披露宴と言う形が一般的でした。特に婚礼で重要視されたのが「三々九度の盃」です。
現在の三々九度の方法とは異なり、当時は三杯の盃を用い、最初に花嫁が、次いで花婿がという順番で飲み続け、最後にまた花嫁が飲む事で合計九度酒を飲む事になります。この方法で行われる三々九度では、花嫁が一回多く酒を飲む事になりますが、これは上述したように、女性に家長としての権限があった時代背景の名残と言えます。
また、三々九度の儀式は、武士の出陣の儀式である「三献の儀式」にも影響を受けています。三献の儀式とは、三つの盃で、肴と共に三杯の酒を飲む事を三度繰り返す儀式ですが、酒の肴は三種類用意されます。一つ目は打鮑(うちあわび)で、打つにかかります。二つ目はカツ(てへんにしま)栗で、勝つにかかります。三つめは昆布で、喜ぶにかかります。何とも言霊や縁起を重視する武士らしい話ですね。
また、日本人は三と言う数字を好みます。三大~、三種の神器、三本の矢、三位一体等が例に挙げる事が出来ます。三に限らずですが、奇数を信仰する由来となっているのは、古代中国の陰陽五行説からきています。奇数は陽数として縁起のいいもの、偶数は陰数として縁起の悪いものとして扱う考え方です。
●婚礼の儀式は大安吉日が良い?
上述したように、日本人は何かと縁起を担ぎますが、日についても同様です。
婚礼に関しても、吉日として大安を選ぶ方は多いですし、葬儀を行う際は友引を避けたりします。
暦の歴史を見ていきましょう。
江戸時代においては、幕府が管理する公式の暦が存在していましたが、それ以外に様々な暦が江戸の庶民には浸透していました。
その中の一つには「歴注」という日毎の吉凶を記したものも存在しました。当時は迷信も多く信じられていましたし、病や不幸を避けるためにも、歴注は庶民にもてはやされました。
もともと大安や友引等は歴注における「六輝(ろっき)」というものが元になっています。中国は唐の時代に生まれ、室町時代に伝えられた吉凶占いです。
もともとは、現在の表現とは異なり、速喜(そっき)、留連(りゅうれん)、将吉(しょうきち)、空亡(くうぼう)、大安(だいあん)、赤口(しゃっこう)だったものが、先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口と変化しました。ちなみに仏滅は本来「物滅」と書き、仏教とは何の関係もありません。
そもそも六輝の仕組みは、例えば一月であれば先勝と決まっているように、各月最初に来るものが決まっていて、後はそこから順番通りに繰り返しているだけのもので、吉凶の根拠は無いに等しいのです。ですから、これも迷信の類と言えます。
●離縁について
婚礼で生涯を共にする伴侶を得る場合もあれば、最終的に別の道を歩む事になる場合もあります。現代で言う所の離婚ですね。
江戸においても、離縁は存在しました。皆さんは「三行半(みくだりはん)」という言葉を聞いたことはありませんか?
これは、離縁に当たって、夫が妻に対して離縁と再婚の許可を、大体三行半程度で書きしたためた書状の事です。
当時離縁状を描く権利は夫側にしかありませんでした。現代とは大きく異なる点ですね。また、離縁に当たっては、夫は妻の持参金を返さなければならないという義務もありました。
離縁をするに当たっては、相応の理由が求められました。その理由は「七去(しちきょ)」と呼ばれ、具体的には以下の7項目です。
①舅や姑に従順でない
②子供が出来ない
③おしゃべり
④盗みを働く
⑤色欲に乱れる
⑥嫉妬深い
⑦悪い病にかかる
以上が離縁を認められる7つの内容です。現代的に見ていかがなものかと思うものも多いですが、当時はこれらが離縁の理由となったのです。
では妻の側からは絶対に離縁できなかったのかと言えば、実はそうではないのです。以下の様な事由においては、離縁の理由として認められます。
①承諾を得ずに妻の持ち物を質入れした場合
②夫が家で後に十カ月以上行方不明の時
また、上記以外にも、神奈川県鎌倉市に「東慶寺」と、群馬県太田市に満徳寺という尼寺があり、ここは俗にいう「駆け込み寺」でした。
離縁を望む妻がここに逃げ込めば、寺院によって保護され、東慶寺はおよそ二年間、満徳寺は三年間に渡って、尼となり厳しい修行をする事で、夫とは縁が切れたと認められるのです。
もっとも本当に駆け込むように寺に転がり込むのではなく、門前の御用宿で夫と妻の調停が行われていました。実際に尼になるまでもなく、この段階で離縁の承諾を夫から得られるケースもあったようです。
●江戸の再婚事情
離縁した後で気になるのが、女性の再婚事情です。当時は貞女は夫を二人持つことはしないと言われていた時代でもありますから、再婚は難しいものだったのでしょうか。
意外とそうでもありませんでした。むしろ武家の女性等は、生涯に何度も結婚する例すらあったほどです。
武家の婚礼が家の存続の為である事は上述しましたが、その意味で言うと、女児しか生まれなかった場合は、再婚する事が多かったようです。
逆に男児が生まれた場合は、家の存続は叶うわけですから、再婚はせずに「後家(ごけ)」になる事が大半でした。
一人の人間において最後のイベントが葬儀です。これは当然自身が執り行ったり、参加するものではなく、自身の死後に近しい者によって執り行われます。
江戸における葬儀は、主に経済力を理由に様々な形がとられていましたし、現代とは異なる常識も存在しました。
実は庶民の間に寺主導の葬儀が普及したのが江戸時代です。その過程で、寺主導の葬式が広まったのです。それ以前の庶民の葬儀は、身内のみで自主的に行っていました。ちなみに江戸時代以前も、公家や武家では葬式を行っていました。
庶民に寺主導の葬儀が普及するきっかけとなったのが、幕府によって行われたキリシタン禁制です。幕府は、キリシタンではない事を確認する役割を寺に与えました。檀家という仕組みを作り、庶民は、檀那寺を持つことになります。檀那寺によって、宗門改めという、キリシタンではない事の確認作業を行わせました。その結果は宗門改帳という、現代でいう所の戸籍簿に当たるものを作成する役目も得たのです。その結果、寺は大きな権力を有するに至ります。
その気に乗じて、寺は「御条目宗門檀那請合之掟(ごじょうもくしゅうもんだんなうけあいのおきて)」という文書を根拠として、庶民へ参拝やお布施、葬儀や法要などを強要するようになります。
この文書ですが、寺は庶民に対して、徳川家が定めた重要な掟であると触れ込みましたが、実は寺の捏造文書でした。
お布施につながる法要などをきちんと行わなければ、戸籍を抹消される、キリシタンなどの邪宗とみなす等の、全くもって寺側の利益追求に都合の良い偽造文書だったのです。しかし、庶民はそんな事はつゆ知らず、なけなしの金銭でお布施や寺主導の葬儀を行うようになっていったのです。
●戒名と位牌
ここまで読むと、現在の仏式の葬式の在り方について疑問を抱く事も多いかと覆います。
死者に対する戒名についても、実は「御条目宗門檀那請合之掟」によって必要性を偽られたものの一つでした。
御条目宗門檀那請合之掟には、檀家に死者が出た際には、キリシタンではない事を確認し、戒名を授けて引導を渡す事が義務付けられていますが、これも当然寺側の創作です。庶民は、必要も無いのに、そうとは知らずに高いお金を払って戒名を付けてもらうようになりました。
そもそも戒名は、仏門に帰依した人に生前に与えられるものでした。
当初戒名は漢字二文字など、非常にシンプルなものでしたが、各宗派が独自に長い戒名を考案し、今の形に至ります。
なお、戒と言う字は、仏門における戒律の意味です。仏教においては、死者に付ける戒名について説いた経典は存在しません。
●位牌について
今でも亡くなった方の位牌を仏壇に飾る方は多くいます。この位牌の起源は、中国の儒教にあるのです。意外かもしれませんが、仏教においては位牌を作る決まりはありません。
儒教の弔いにおいては、遺体は一旦棺に入れて屋敷内に安置します。その後埋葬と共に葬儀を行うのですが、そこで重要な祭具として「木主(ぼくしゅ)」という依り代を用います。木主には、死者の名前や官位などを書き記しました。この木主が南北朝時代に伝わり、位牌となったのです。
位牌は主に武家に用いられてきましたが、戒名や葬式と同様に、江戸時代以降に普及しました。そのきっかけも、当然、御条目宗門檀那請合之掟です。
●死者との別れ
死者と別れを惜しみ、悲しむ気持ちはいつの時代も変わりません。その儀式には様々な思いが込められています。
「末期の水」もそんな儀式の一つです。これは遺体の口に、シキミの葉から水を飲ませたり、木綿の端切れに水を含ませて唇を潤す方法で行われます。死者の渇きを癒すと共に、共に最後の水を飲んで別れを行う意味合いも含まれます。
日本においては近しいもの同士で、共に飲食を行う事で絆を深める習慣があります。「同じ釜の飯を食う」という言葉にもその考えが現れていると言えます。
●北枕の由来
ご遺体を自宅に安置する際に、一般的には北枕に寝かせます。この理由は、仏様が入滅の際に頭を北にしていた事が元となっています。
ちなみに、武士の場合は枕元に刀を配置していました。その名残として、遺体の胸に魔よけの刃物を置く習慣もあります。
●枕団子と枕飯について
まず枕団子ですが、こちらも仏様に関する逸話に由来し、生前食す事が出来なかった香飯を死後に備えられた事に由来します。
枕飯はご飯を山盛りに持ったお椀に、箸を突き立てます。いずれにせよ、死者に対して食物を備える事は、上述のした様に、近しい者との食事を重視する日本人が重視する心情からではないでしょうか。
●遺体を清める
ご遺体を納棺する際には、清らかな状態で死後の世界に旅立てるように、湯灌をして遺体を清めます。
しかし江戸の庶民にとって、湯灌するにも一苦労。それもそのはずで、家持の身分とは異なり、借家住まいの庶民は、その敷地内での湯灌を禁じられていました。その為、寺の敷地内にある湯灌場を利用するのです。無事に湯灌が済めば、死に装束を纏わせた後に納棺を行います。
ちなみに死装束は、当時の旅装を基本としています。それは、死も旅立ちの一つと言う考えからです。脚絆や草鞋だけでなく、六文銭が特徴的です。六文銭は、現代で言う小銭程度ですが、三途の川を渡るのに必要な代金と考えられていました。死者の旅への細やかな心配りが感じられます。なお、庶民にあっては、経済状況から必ずしも白装束を準備できない場合もあったようです。
●埋葬方法について
江戸の埋葬方法はほとんどが土葬で、火葬は極少数でした。
棺桶は、桶と呼称しますが、実際は箱状の物で、実際に桶の形状を取っているものは「早桶(はやおけ)」と呼ばれます。早桶は、急ごしらえの安価な桶です。
これらの桶に座棺と言って、遺体を座った形で納めました。
土葬の詳しい方法としては以下の通りです。土に棺桶を埋めた後、土を丸く持った土饅頭を作ります。更に土饅頭の上には籠を被せるなどしました。これは野犬が掘り起こす事を避ける意味があります。土饅頭の周囲には自然石を配置したり、塔婆を立てるなどもしました。
一方の火葬は、ごく少数と言えども歴史は古く、考古学的研究から、縄文時代には既にその形跡が発見されています。ですが、明治時代に入っても、日本における火葬の普及率は低く、火葬が一般的になったのは近代であると言えます。
●香典について
現代の葬儀において、参列者は香典を用意します。もともと香典はどのような意味合いを持つものだったのでしょうか。
もともと香典は、仏を供養するための「六種供養」に由来します。六種の内訳は、華、塗香(ずこう)、水、焼香、飯食、灯明です。
6種のうち特に香が重視され、高級ではあっても香を用いて供養する事が定着していきます。
現代では細長く加工された線香が一般的ですね。この形状の線香が初めて作られたのは、江戸時代の長崎で、五島一官という人物が考案しました。
こうして、葬儀に付き物となった香を購入するための援助として、金銭を包むようになったので「香典」と言うようになりました。
ちなみに関東においてお茶の香典返しが多くみられる理由は、徳川幕府が討幕された後に、徳川家の当主とその家臣たちが、静岡県に移住した際にお茶作りを営んだ事に由来します。明治政府の重鎮達が、そのお茶を様々な贈答品や返礼品の類に用い始めたので、一般にも普及しました。
●喪に服すという考え方
喪中や忌中という言葉を聞いたことがあると思います。死者が出た家族が、一定の期間喪に服すことを言います。この期間の長さは、亡くなった者との関係性によって異なります。
最も長いのが、実の父母で一年間と定められています。逆に最も短いのは、兄弟の子供で七日間と定められています。
江戸時代に入ると、一般的に喪に服す期間は四十九日で定着しました。喪に服す方法としては、男性であれば月代を剃らずに、髪を伸ばし放題にしておくという方法です。女性の場合は、飾り気のない髪形にするなどで喪に服していました。喪が明けた後には、再度月代を剃り、さっぱりと穢れも祓うという感覚です。
もともと喪に服すという考えは、中国の風習に由来します。死者の追悼の為、喪に服している期間は仕事をしないという風習です。また、もともと日本には死を穢れとして忌み嫌う風習が存在しました。そういった二つの側面から、日本においても喪に服すという考えが生まれました。
●葬儀の心
この葬儀の項目においては、歴史的事実に基づいた記事作りを行っていますので、少々仏式の葬儀に関して批判的な文章にもなってしまいましたが、当然その様な意図はありません。
どの行事も、それなりの意味があり、様々な経緯を踏まえて誕生しています。葬儀に関わるものの心持として最も大事なのは、やはり死者を弔う気持ちではないでしょうか。
現代では様々な葬儀の形式があります。また、家族葬が多くなってきている事も、ある意味理に適った流れなのかもしれません。
近しい者の旅立ちを見送るのに相応しい葬儀を行いたい。その気持ちが最も重要なんだと考えます。